「鞍馬天狗に憧れた少年、ピンク映画の王道監督になる!!」新田栄監督インタビュー・2
第二回『谷ナオミ劇団での活躍、そして監督・新田栄誕生!』
【1.俳優時代とピンクの現場】
工藤:俳優としては、どんな監督の作品への出演が多かったんですか?資料では、関孝二監督、小森白(こもりきよし)監督、稲生実監督、小川欽也監督、山本晋也監督などの名前があるんですが?
新田:そうだね、直(ちょく)さん(山本晋也監督の愛称)のにはそんなに本数は出てない。2~3本かな。多いのはやっぱり小森白監督かなあ。新東宝のベテラン大監督だからね。
小森白監督の現場スチール写真。左側奥が北村淳(俳優時代の新田監督)
新田:まあ、色んな人が大映から来ていたからね、小倉さん(小倉泰美監督 1916~1995)とか。当時、大映とかが下火になってたからねえ。
工藤:そういうメジャーな会社の人たちがピンクに来ていたんですね。
新田:それと東宝の大プロデューサーの本木壮二郎さん(プロデューサー、監督 1914~1977)ね。
工藤:黒澤明監督の『野良犬』とか『羅生門』のプロデューサーの本木さんが、監督をなさっていたんですね。本木組にも出演なさったんですか?
新田:出てます。凄いんだよ。現場で皆の見ている前で入れ歯を外してカタカタしたりしてね(笑)。本木組は役者が良かった。やっぱり古い新東宝の役者を使っていたからね。本木監督は、何しろ声が大きかった。内緒で撮っているのにバレてしまう。
【2.谷ナオミ劇団】
工藤:俳優時代の一番の思い出は何ですか?
新田:やっぱり谷ナオミ劇団のことかなあ。1977年にナオミからマネージャーをやってくれと(連絡が)来たんだよ。当時、ナオミは日活で団鬼六さん原作のSM映画をやってたんだけど、だんだん日活も少なくなって、それで劇団を作って地方巡業を回る事になったんだ。
谷ナオミ劇団集合写真(神戸市 新劇ゴールド劇場)左側奥が北村淳
工藤:それは、1960年代の中頃にピンク映画の上映と同時に映画館でやっていた、いわゆる“実演”とは違うんですか?
新田:それとは違うね。実演と言えば、関さん(関孝二監督)が面白い事をやってた。飛び出す映画っての。
工藤:「飛び出す映画」ですか?
新田:要するに、映画をずっとやってて、あるシーンが来ると同じ背景を写真で撮っておいて、映画をやめてそこに写真をスライドで映す。映画でアウトした役者が舞台に出てきて、いわゆる映画から飛び出して繋げていくわけ。1本の映画で2回くらいかな、生きた人間が映画から飛び出して来るという。それを関監督がやったんだ。
工藤:関監督がアイディアマンだという事は聞いていましたが、確かに面白いですね。
新田:主役でやらせてもらったのは『なんとかエロ博士』とか言う題名だったかな(『透明人間 エロ博士』新日本映画、1968年)。こっちは立体映画なんだ。何だか同じことを2回撮るんだよね。赤で撮って、ブルーで撮って。それで、上映の時はお客さんが赤と青の眼鏡をかけて見るんだ。撮影は大変だったよ、塩原の温泉に行って。
工藤:谷ナオミ劇団の演目の内容は具体的にはどういうものだったんですか?
新田:新派調の和服物が多かったね。
工藤:谷ナオミさんは、映画でも和服姿が美しかった印象が強いです。谷ナオミさんの魅力を最大限に生かすという事なんでしょうね。
新田:谷ナオミ劇団の後は、東てる美(女優 1956~)の劇団にも出演したよ。谷ナオミ劇団をやってた山辺さんが東てる美に看板を替えて。最初は二枚看板でやってたんだけどね。
工藤:山辺さんは、東てる美さんと結婚しましたよね。
新田:山辺さんが谷ナオミ劇団から手を引いたんで、私にマネージャーをやってくれないかという事で。
工藤:そういう事情だったんですか。
新田:東てる美劇団では新宿のコマ劇場でやった事もある。女優は東てる美を入れて3人、男優は2人だった
東てる美劇団での舞台(東てる美と北村淳)
新田:(写真の裏のメモを見て)この写真は、名古屋のテアトル希望、昭和57年(1982年)8月だね。なんだか渡り歩いたんだよ、あっちこっち。
工藤:地方巡業で色々なところに行かれたわけですね?
新田:そうだね。まあ、マネージャーと言っても楽だけどね。黙ってても谷ナオミの名前で電話が来るから。地方の劇場(コヤ)主から呼ばれて。公演は10日間だから、多い時は、10日ずつ、月に3か所、日活上映館やヌード劇場に行くわけ。
工藤:マネージャーの仕事は、そういう風に仕事を決めたり、移動の段取りとか全部やるわけですか?
新田:そうだけど、ホテルとかは劇場(コヤ)主が取ってくれるからね。他の劇団は楽屋に泊まったりしていたみたいだけど、うちは絶対ダメだと。犬が二匹いるから(笑)。
工藤:谷ナオミさんが、自分の愛犬を巡業にも連れて行ったという事ですか?
新田:そう。毎日、朝、晩に散歩に連れて行く。
工藤:他にマネージャーの仕事は?
新田:楽日にお金を全部集金してね、それを役者に渡す事とかね。
工藤:マネージャー時代に印象深い出会いはありましたか?
新田:浅草に“東さん”(斎藤智恵子、実業家 浅草ロック座名誉会長 1926~2017)という偉い人がいるんだよ。その人の仕事で、電話で呼ばれて、話をしてね。その時の事はよく覚えているよ。仕事のコースを世話してくれた。
工藤:谷ナオミさんは1979年に引退なさるんですね。引退興行があったようですが?
新田:引退興行は、1年くらいやってたよ。
工藤:そうなんですか?
新田:そう。(公演の)場所はあちこちあるから。ナオミは、今は九州にいて、電話でたまに話すけど。
工藤:今もお付き合いがあるんですね?
新田:熊本でスナックをやってたんだ、ママで。それも高齢になったから人に任せて、自分は隠居してるんでしょう。一昨年かな。この間の水害の時に心配して電話したら「大丈夫よ」って。キャンピングカーを持ってるから、どこへでも行けるので大丈夫だって言ってたよ。
工藤:谷さんと言うと、私は大女優というイメージなんですが、実際にはどういう方なんですか?
新田:いやあ、さっぱりしているよ。本名は福田明美と言ってね。熊本の人らしく気さくな性格で、すごく面倒見の良い人です。
【3.新田栄誕生】
工藤:俳優としての最後の仕事は、資料では1983年の『女子大生 契約娼婦』(獅子プロ、監督:大井武士)となっています。
新田:向井さん(向井寛監督)のとこ?
工藤:そうです。獅子プロですね。監督を始めた時点で、俳優は辞めたという事ですか?
新田:そうだね。監督も最初は映画ではなくビデオだったんだ。鷲尾さんの知り合いに富士ビデオという会社があって、そこでビデオを10本撮った。
工藤:そのビデオは、どんな内容ですか?
新田:ポルノだけど、今と全然違う。オッパイも見せちゃいけなくて。ずいぶんお固い内容だったね。その後、日本シネマで映画を撮れと。昔、国映が、高速道路の下にあったんだよ。ビルの地下に国映があって、その上の1階が喫茶店で、そこで(鷲尾さんと)話をしてると「監督やってみないか?」って言うからさ。少し迷ったけど「いいですよ」と。じゃあ何か名前(監督名)を考えておいてって。
工藤:その時考えたのが、新田栄だったんですね。
新田:そう、出身地の群馬県新田郡の新田に、新田が栄えるで新田栄としたんだ。日本シネマ製作で(国映配給、大蔵映画配給、ジョイパツクフィルム配給を)しばらく撮っていた。日本シネマでは他に、渡邊元嗣(監督 1957~)や稲尾ちゃん(稲尾実、監督 1943~、別名義は深町章)が撮ってたよ。
撮影現場の新田監督とスタッフ
工藤:渡辺元嗣監督は、私も仲が良いんですが、若いころの渡邊監督はどんな印象でしたか?
新田:獅子プロ(向井プロ)に助監督が4~5人いたけど、真面目で、性格が良くて。今でも年賀状のやり取りをしてますよ。
工藤:資料では、新田栄名義の前に八木沢修名義の『乱れた人妻たち』(1982年2月公開)がありますが?これが監督・第一回作品ではないんですね。
新田:うん、それは東活時代だね。東活はね、これも鷲尾さんの知り合いで本屋(脚本家)の池田正一さんという人がいるんだけど、その人に頼んで紹介してもらったんだ。昔は、3本立ての映画で、3本が同じ監督名にならないように、一本は新田栄で、もう一本は八木沢修と複数の名前で監督してたんだ。初めのうちは、一か月に一本撮ってたんだけど、翌月は2本になったりと、東活だけで年間16本撮っていたよ。その他に新東宝でも撮っていたから、多い時には年間22本くらい撮ってたね。
工藤:そうか。東活と新東宝で使い分けていたんじゃなくて、東活の中でも複数の名前で監督していたんですね。
新田:小林悟監督もそうだよ。小林さんも別の名前があった。
工藤:そうですね。確かに小林悟監督も、かなり沢山の別名義がありますね。
【4.監督の心得】
工藤:ところで、そもそも監督を志した動機は何だったんですか?
新田:志したと言うよりも、さっき話したように、日本シネマ鷲尾社長に誘われて、まずは一本撮ってみようかと。それと、やっぱり映画が好きだったからだね。今でも現場の夢を見るもの。
工藤:それは、どんな夢ですか?
新田:監督としては、撮影現場の色々な事だけど、役者としては、舞台で幕が開くのにセリフを思い出せない、どうしようと困っているような事だね(笑)。
工藤:俳優と監督ではどちらが大変ですか?
新田:俳優の方が大変だね。セリフを覚える事と相手とのかみ合いを考えないといけない。監督の方は、観るお客さんが喜びそうに台本にそって想像して撮っていく。
工藤:師匠にあたる映画監督はどなたですか?
新田:小森白監督かな。
工藤:小森白監督からはどんな事を学びましたか?
新田:大変に偉い監督だから、学んだというより只々尊敬しているという感じ。沢山の作品に出演させて頂いたけれど、『拷問刑罰史』を2本くらい撮ったかな。凄く印象に残っています。
工藤:その他には?
新田:関孝二監督かな。それと小林悟さん。
工藤:小林悟監督の影響も大きいですか?
新田:そうだね。助監督も1本か2本やってるよ。藤沢に行った映画で…。何て題名だったかなあ。
工藤:小林悟監督からはどんな影響を受けましたか?
新田:女優さんにやさしい(笑)。
工藤:監督になる前に助監督はかなりやってらしたんですか?
新田:いや、ほとんどやっていない。関監督の現場なんかではね、俳優をやりながら、暇な時にお手伝いでカチンコを叩いたりね。そういう事が好きだからね。
工藤:そうですか。俳優時代のそういう積み重ねが監督としての出発点だったわけですね。
新田:そうだね。とにかく、現場の待ち時間でグダグダしてるのが嫌だったからね、カチンコやったり、小道具やったり。何でもやりました。
工藤:役者から監督になった時のお気持ちはどうだったんですか?やっぱり嬉しかったですか?
新田:これで長いセリフを覚えなくて良いと(笑)。
工藤:役者時代に監督になりたいという気持ちはなかったんですか?
新田:いやあ、それはありましたね。監督の横でカチンコを打つ時、次のカットをどう撮るのかと想像したりしてたよ。
工藤:監督をやる時に本名でやるという選択肢は無かったですか?
新田:あんまり深く考えなかったねえ。
工藤:と言うのも、私は本名の工藤雅典でピンク映画を撮ってるんですが、どうしても世間体とか世の中の常識に捕らわれる部分がある気がするんです。新田監督の映画を見るとそういう事から全く自由な気がします。監督をする時に、ご本人から映画監督新田栄に、気持ちが切り替わるのかなと思ったんです。
新田:僕は、徹底してるんだ。評論家とか関係なく、とにかく自分の撮りたいモノ、お客様の見たいモノを撮るんだって。評論家が何と言おうと、お客さんは、お金を出してスケベな事を見に来るんだからね。だから、僕はカットもカラミになると多くなるんだよ。顔のアップを撮って悶えてる、そうするとお客さんは想像で、下の方はどうなってるのかなあと思う。だから、男優の手がオッパイに行くアップ、そうしてまた顔のアップを撮る。悶えているうちに表情が変わると、股間に手が来ているアップとね。カットバックして、お客さんの見たいモノをきっちり見せていくからどうしてもカットが増えちゃうんだ。
工藤:内藤忠司さんという先輩監督が、役者として監督の作品(『ノーパンしゃぶしゃぶ 下半身接待』1998年公開、改題『完全接待 無防備なパンティーで』)に出演した時、芝居部分は30分で終わったけど、その後、カラミをあの手この手でたっぷり2時間撮って、翌日は筋肉痛で大変だったと言ってました(笑)。カラミをカットを割って、じっくり見せると言うのが監督の映画の一つの特徴ですね。
新田:私の若い頃、お客さんは、石原裕次郎さん、小林旭さんの映画を観て、その本人になりきって、劇場を満足して出てきた。映画にとって、お客さんに満足してもらう事がとても大切だと思う。だからお客さんに満足して頂く為に、お客さんの見たいモノを見せるという事だね。お客さんが、一つのカットを見た後に次は何を見たいか。ここで顔を見たい、手を見たい、脚を見たいというのを想像してね。監督は想像だものね、実際にやるわけじゃないから。実際だったら、死人なんか撮れないからね(笑)。そういう、お客さんの立場に徹して、お客さんに好かれる映画を撮るようにしてきたんだ。
工藤:今、監督の映画を見返しても、只々純粋に“面白い”んですよね。
新田:でも、今は使えないでしょ?カラミがハード過ぎて。
工藤:劇場ではもちろん大丈夫ですが、私の撮ったピンク映画は、R-18版をR-15版に編集し直して、CS放送などで流される事があるんです。そういう場合は難しいかも知れませんね。
新田:そうだろうね。でも、劇場ではお金を出すのはお客さんだものね。お客さんに喜ばれる映画を作らなきゃ。監督の仕事は想像(イメージ)だから。監督のマスターベーションではないから、自分だけが満足してもしょうがない。本当にそう思うよ。
※記事中に掲載した写真は、全て新田監督の私物を提供していただきました。
最後の第3回は、東活、新東宝の時代の詳細、そしてエクセスでの大活躍についてたっぷりお伺いします。乞うご期待‼