「鞍馬天狗に憧れた少年、ピンク映画の王道監督になる!!」新田栄監督インタビュー・3
第3回『東活、新東宝、そしてエクセスヘ』
【1. 東活時代】
工藤:日本シネマで何本か撮った後に東活で大量に映画を撮り始める訳ですが、東活時代のお仕事の状況はどんな感じでしたか?
新田:月に1本撮って、翌月は2本とかで年間16本。とにかく自分で本なんか作っていられないから、助監督が準備班で本も含め色々やってくれて、僕は仕上げが終わったら、次の撮影現場に行くという感じだったね。
撮影現場の新田監督とスタッフ
工藤:脚本家の池田正一さんのお話も出ましたが、監督ご自身は脚本を書くことは無かったですか?
新田:書かないね。
工藤:東活は最初は小林悟監督が中心で撮っていたんですか?
新田:そうなの。稲尾さんも何本か撮ったよ。そのうち小林さんが辞めて、僕と角口さんというカメラマンが監督するようになったんだ。
工藤:カメラマンが監督を?
新田:そう。配給の都合で、月に3本撮らなきゃならない。3本立てだからね。そのうち、藤原(康輔)っていう助監督が監督に昇格して、月に2本撮って、そのうちにもう一人助監督が昇格したのかな。渡辺明夫という監督。
工藤:東活という会社もアップが多かったと聞いていますが?
新田:社長の好みなんだ。試写は観に来たよ。
工藤:東活も1990年頃までは動いていて、1991年1月に新田監督の『エステ・セックス美容法』など3本が公開されて最後になっていますね?
新田:最後は杉山さんという八木社長の甥っ子が社長をやってて、東活で配給出来ないので、国映か何か別の会社に持って行って配給した記憶があるんだけどね。
工藤:ところで、府中に東活のスタジオがあったと聞いた事があるんですが?
新田:府中に古い一軒家があってね。そこをセットで使っていたね。あと、青山のお墓のそばにビルがあって、そこの3階のワンフロアを借り切ってセットにしていた。
工藤:そういう場所がベースにあった事が、映画の量産に役立ったんでしょうね。
新田:そうだね、雨の時なんか屋外のシーンも室内で撮っちゃうし、山の中のロケでも撮り切れないと枯れ葉をたくさん拾ってきて、室内に撒いてアップで処理しちゃうとかね。
工藤:そんなやり方があるんですね。
新田:役者をそんなに何日も拘束できないからね。
工藤:臨機応変、自由自在に撮るみたいな感じなんですね。
新田:雨で撮影を延期した事はまず無いね。ほとんど撮っちゃうから。
工藤:それは凄いですね。
新田:スタッフに恵まれたからね。東活でも、新東宝でも、後のサカエ企画でも、スタッフが良いから。特に丘尚樹(脚本家:岡輝夫)がよく動いてくれたからねえ。脚本を書いて、現場にもついてくれて、小道具も全部作ってくれた。彼は、映画青年だから、キネマ旬報の記事も書いてたんじゃないかな。今は、何してるかなあ。去年は、電話が来たんだけど。
新田組集合写真(中央が新田監督、左から2人目が脚本家・岡輝夫氏)
【2. 脚本家】
工藤:脚本家のお話をしたいんですけど、最初にお仕事をした脚本家は池田正一さんですか?
新田:そうだね。
工藤:これだけたくさんの映画を撮られたんですから、それは大勢の脚本家とお仕事してるんでしょうが、思い出深いのはやはり、池田さんと岡さんになりますか?
新田:そう。それから、世良じゅん、亀井よし子です。
工藤:脚本家の仕事ぶりはいかがでしたか?それぞれどんな個性がありましたか?
新田:池田さんは何しろ早いんだ。急いでと言うと、一晩で書き上げちゃう。岡さんは、色々と凝って、自分のカラーを出そうと頑張る方だね。
【3. エクセスフィルム】
工藤:1989年11月公開の『ハードペッティング 痴漢と覗き』からエクセスで撮り始めるわけですが、そのきっかけは?
新田:これもやっぱり鷲尾さんの紹介で。まず、エクセスからタイトルをいただき、池田さんにシノプシスを書いてもらった。
工藤:なるほど。
新田:で、それを元に池田さんに脚本を書いてもらって、それにOKが出て始まったんだ。
工藤:公開としては2作目の『ザ・ONANIE俱楽部 女子大生篇』(1990年1月公開)の脚本が池田さんですから、企画としてはこちらが先に始まったのかもしれませんね。
ポスター画像『恥じらい女子大生 大胆舌戯』(原題『ザ・ONANIE俱楽部 女子大生篇』)
新田:ONANIEシリーズもたくさんある。早乙女宏美という女優がいたんだよ。早乙女は、オナニーの演技が得意だったから、シリーズの常連だったよ。
新田組現場スチール 早乙女宏美(『恥じらい女子大生 大胆舌戯』 原題『ザ・ONANIE俱楽部 女子大生篇』)
工藤:早乙女宏美さんはSMモノにもよく出ていますね。
新田:SMも得意だったね。虐められる方だけどね。撮りやすかったんだよ、早乙女は。(陰毛を)全部剃ってあるから。
工藤:早乙女さんが?
新田:うん。熱海の畑の端を向こうから、バレるまで全裸で走らせて、カメラに向かって。
工藤:編集で、股間が分かるギリギリまで使うという事ですね?
新田:アンダーヘアーが見えないから、ずいぶん手前まで使えたよ。
工藤:エクセスで撮り始めて、東活や新東宝の時代と変わった事がありますか?他社よりカラミをハードに撮るように言われましたか?
新田:いや、言われないけどね。ただ、生撮りビデオに少しでも近く、お客さんが喜ぶようにと思って撮ったけど。
工藤:カラミの撮り方は、監督を始めた頃とエクセスで監督をした頃では変わりましたか?
新田:変わったね。だって初めて監督をした頃は、乳首も出せないんだもの。(乳首に)テープかなんか貼ってたんだよ。それじゃあ、写真では撮れないものねえ。だから、乳首は手で隠すとかね。難しかったよ。男女の絡みもフルサイズの全裸は撮れない。お尻から下は洋服で隠すか、布団を掛けて撮影する。
工藤:エクセスでは、『痴漢と覗き』と『ザ・ONANIE』と二つの大きなシリーズモノを持っていた訳ですが、この企画は監督の発想ですか?
ポスター『痴漢と覗き 尼寺の便所』(2000年公開)
ポスター『ザ・裏わざONANIE』(1992年公開)
新田:オナニーものはこの頃、アクトレスの渡辺忠(AVの代々木忠監督が、ピンク映画を撮る時に使っていた名義)監督も良く撮っていたね。企画に関しては、全部会社から来る。さっきも話したけど、会社から発注がある時は、まずタイトルがあって、そのロゴも決まっていて、それを渡されるんだ。
工藤:では、最初に決まっているタイトルを監督が受け取って、そこから監督がライターに依頼してストーリーを書いてもらう訳ですね。
新田:まずシノプシスを書いてもらってね。それを会社に見せて、ここを直してとか、OKなら本にしてとか進むわけ。
工藤:で、ライターの書いたものをドンドン撮っていくわけですね。
新田:本も会社に相談してね。会社を通さないと怒られちゃうから(笑)。エクセスも最初は厳しかったよ。試写を観て少しでも脚本と違うと「変えましたね」と指摘された。
工藤:では、会社と監督とライターと3者で本を作っていくと。
新田:そうだね。
工藤:二つのシリーズには、それぞれの狙いのようなものはあったんですか?
新田:作品によって色々だね。撮り方で言えば、ONANIEの時は鶏肉で女性の性器のそれらしいモノを作ってね、そこに指が入って来るのを内側から撮るとかね。
工藤:なるほど子宮の見た目という事ですね。
新田:そういう指が入って来るカットがあって、数回カットバックして女性の愛液が染み出て来る、後は女の喜ぶ表情のアップに繋ぐとかね。鶏肉でやったのが4~5本あるんじゃないかな。
工藤:なるほど。
新田:そんな事やってるから売れないよね(笑)。
工藤:そんな事はないです(笑)。そういう事を、今また再評価して欲しいんですよね。
新田:映画に対する工夫ね。関さん(関孝二監督)が匂いの出る映画を作ろうとしたけどダメだったね。実行出来なかった。喫茶店でコーヒーを飲むとコーヒーの香りがする、しかしその香りを瞬間に消す方法が難しい。
工藤:今も匂いが出る映画は実現してないと思いますが、椅子が揺れるとか体験型の劇場を作る動きがありますものね。関孝二監督は、凄く早かったですね、そういう発想が。鶏肉を使うとかそういう工夫ですが、関監督とか先達の監督の影響はありますか?
新田:ありますね。関さんは、本当にそういうのが好きだったからね。勉強になったね。
工藤:エクセスの映画で、辛い事とか大変だった事はありますか?
新田:エクセスはね、主役が毎回“初脱ぎ”と言って新人女優を使わないといけなかった。毎回新しい女性、新しい女性と、それを見つけるのが大変。そして、芝居は出来ないし、歩きも満足に出来ないような女性が主役で現場に来るんだからね。特殊な衣装以外は自前なんだけど、衣装を持って来ない人もいる。それを1時間の番組にするんだから。これは、大変だよね。素人だから。
工藤:キャスティングは、監督ご自身でやられてたんですか?
新田:そうだね、大体。AVモデルの事務所に行って写真を預かって、それで会社にOKをとって。でも、主役が中々決まらないんだよ。写真を見ても分からないし。写真と本人と全然違う女性もいるから。
工藤:今は結構、AVで人気のある女優がピンクに出ますが、監督が量産している頃は、人気のある女優はギャラが合わないんで中々出なかったんじゃないですか?AV以外の女優はどうやって見つけたんですか?
新田:とにかく、色々な事務所に行って写真を見せてもらって。中には本人と会う時もあるけどね。
工藤:飲み屋で隣に座った女性を口説いてピンクに出した、というような話も聞きますが?
新田:それは無い。みんなプロのビデギャル。中には良い女優もいるからね。
工藤:そうですよね。AVの女優でも、本当に芝居のうまい人がいますからね。びっくりするくらい上手い人が、中にはいるので。
新田:うん。
工藤:じゃあエクセスで一番苦労したのはキャステイングですね。キャステイングと新人の指導。
新田:そうだね。主役の周りに、ベテランの早乙女とか林由美香とかを使ったりね。
新田組現場スチール 林由美香(破廉恥熟女 ピンクな乳首を吸って!)
工藤:新人の主役の脇を、ベテランで固めるという事ですね。
新田:主役のキャステイングも2通りの考え方があるんだよ。良い女優を何度も使ってスターに育てるのと、毎回新人を使って新鮮さを出すのと。エクセスはスターを育てる事もすればよかったんだけどね。でも、ビデギャルだから(スター育成を)やってもしょうがなかったのかな。事務所(の方針)が違うから…。
工藤:ピンク映画の初期の頃は、谷ナオミさんとか白川和子さんとか、スターが生まれましたものね。
新田:日活ロマンポルノでも最初の頃、色々なスター女優が出てきたよね。そういう人が出てくれると楽。自分でイメージを作って来るからね、役作りを。全然セリフを覚えて来ないんだもの、ビデギャルは。
【4.映画を量産出来た理由】
工藤:監督作は、エクセスだけで100本以上ですが、全体では何本くらいお撮りになられたのでしょう?
新田:350本くらいかねえ。
工藤:すごい数ですが、どうしてそんなに撮ることができたとお思いですか?
新田:会社から来るんですよ、会社から。何月何日にこれ撮って初号をあげるようにと。
工藤:監督の方から、こういう企画で撮りたいと言う事は無かったですか?
新田:無かったねえ。
工藤:会社の方からどんどん注文が来るというのは、僕なんかには夢のような状況です(笑)。
新田:小林さん(小林悟監督)なんかは、もっと撮ってるでしょ?
工藤:そうですね、450本以上という話を聞きますよね。
新田:そうでしょう。あの人は、東活でずっと月に3本くらい撮ってたからね。
工藤:小林悟監督は1930年生まれで、1938年生まれの新田監督より8歳ほど年上ですが、若松孝二監督が1936年生まれ、向井寛監督が1937年生まれ、山本晋也監督が1939年生まれで、大体同世代ですよね?この中に、ライバルと意識する監督はいますか?
新田:いないよ。みんな大先輩だもの。
工藤:そうですか。確かに監督のキャリアとしては、俳優をしていた監督とくらべて、みなさん早く監督をしていますね。新田監督のデビューは44歳ですよね。考えてみれば凄いですよね。44歳から監督をして350本というのは。
【5.作品は“イロ”より“エロ”】
工藤:作品を監督する上で、自分の“イロ”というか個性はこうだというのはありましたか?
新田:自分の“イロ”と言っても出しようがないんだよね。(企画が)みんな向こうから来るから。全体的なストーリーとかは決められちゃってるから、“イロ”を出すとすればカットカットでね、出していくしかしょうがないよね。作品は“イロ”より“エロ”が大切。僕も自分の狙いで、和服の映画を撮った。谷ナオミの和服の色っぽさを知っていたから。でも中々できない。ビデギャルでは無理だった。僕が着せてあげなければならないので、疲れるだけだった(笑)。
工藤:監督には作家主義の監督と職人タイプの監督がいると思いますが、監督は後者で、来たモノを臨機応変に料理するという考え方ですね。
新田:本も現場で直す事もあるけどね。でも、書いてもらったものを尊重するようにはしているよ。相手もそれでメシを喰ってるんだから、失礼になっちゃうからね。
工藤:ピンク映画にはいわゆる“社会派”みたいな、自己主張の強い監督もいたじゃないですか。そういう監督は、どういう風に見ていましたか?
新田:そういう監督は、それだけ自分がしっかりしているからでしょ。しっかりしたモノを持ってるから“こうだ”“こうだ”と言えるわけでね。僕は女優さんにも“こうだ”と言えない。言っても出来ないしね(笑)。
工藤:女優さんへの演出は、自分で演じてみてそれを見せるタイプですか?
新田:いや。まずやらせて、それから、ちょっとこうした方が良いよとか言うよ。俳優は自分の事しか考えないからね。監督は相手役と両方考えるでしょ。あまり一人で好き勝手にやられると相手役が死んじゃうからね。一番は、女性の魅力を引き出す事。何しろ僕たちの映画は、女性が主役だからね。
撮影現場の田代葉子(女優)と新田監督
工藤:俳優をやっていた事で、そうでない監督に比べて良かった事はありますか?
新田:どうだろうねえ。俳優やってる頃は何も分からないで、ただ好きで、現場のスタッフや、製作の鷲尾さんを手伝ってたけどね。そういう時間が良かったのかねえ。
【6.これからの企画】
工藤:今後撮りたい企画はありますか?
新田:(谷)ナオミが元気なうちに、ナオミで一本やろうかと思ったけど、ダメだった。間に合わなかった。自分でやっていた「大谷」と言うクラブが忙しいのと、もう年齢を考えると難しいと。前は、『それからの谷ナオミ』みたいな事を考えていたんだけどね。
工藤:そういう企画があったんですね。それは見たかったなあ。
新田:(写真を見せながら)こういうのもやったんだよ。ピンク映画同窓会。
ピンク映画同窓会
工藤:これはいつ頃ですか?
新田:いつ頃かなあ?確か4回目だった思うよ。(写真をじっと見て)生きてる人も、どんどん少なくなっていくよ。
工藤:場所はどこですか?
新田:新宿の歌舞伎町の中華屋。ジョイパックの入ってたビルの。ジョイパックもピンクを配給していたからね。でも色んな事を…(嘆息して)忘れた、忘れた…。
【7.最後に…】
工藤:監督、最後に何かメッセージをお願いします。
新田:僕なんか、メッセージなんて別にないなあ(笑)。
工藤:いえいえ、これだけの本数を撮られた監督なんですから!
新田:段々と寂れていくピンク映画だからねえ。メッセージなんか残してもしょうがないとも思うけど。とにかく、寂しいねえ。エクセスの社長には最後まで残ってもらって、映画を作り続けてほしい。せめて月に一本とかね。
工藤:「エクセスよ、映画を作れ!」ということでしょうか?
新田:そういうことだね。
工藤:本日は、長い時間、どうもありがとうございました。