「鞍馬天狗に憧れた少年、ピンク映画の王道監督になる!!」新田栄監督インタビュー・1
新田栄監督の撮ってきた映画の本数は300本以上。ピンク映画の監督の中には200本、300本と撮った監督は数人いるが、俳優出身で初監督が44歳という事を考えるとその数は驚異的だ。市井の人々の性を撮り続けた新田監督。およそ世間が抱くピンク映画のイメージがあるとすれば、正に新田監督の撮り続けた映画がそれだと思う。「観客の見たいモノを見せる」をモットーに、庶民の夢と欲望に寄り添い続けたピンク映画職人・新田栄監督。その映画人生を紐解くロングインタビューをお届けする。 [インタビュアー:工藤雅典 2021.4.13]
第一回『鞍馬天狗に憧れた少年がピンク映画へ!』
【1. 少年時代】
工藤:新田監督、お久しぶりです。新田監督とは、私がエクセスで初めてピンクを撮る時(1999年 『人妻発情期 不倫まみれ』)に、エクセスの社長の紹介で勉強の為に新田監督の撮影現場を見学させていただいたのが最初でした。本日は、新田監督の映画作りなど、色々お聞かせいただきたいと思いますので、よろしくお願いします。
新田:もう82歳で、色々な事をずいぶん忘れちゃったよ。せめて70代の時に話を聞いて欲しかったね(笑)。
工藤:申し訳ありません(笑)。あの、早速ですが、お生まれは?
新田:生まれたのは、群馬県新田郡藪塚本町。現在は地名が変わって群馬県太田市山之神になったけどね。昭和13年(1938年)5月16日生まれです。
工藤:どのような少年時代をお過ごしになったんでしょうか?
新田:うちは全部で6人兄弟だったんですよ。僕は次男坊だけどね。少年時代と言ってもねえ…。でも、映画は好きだったよ。一番最初に見たのは4~5歳の時。お母さんに連れて行ってもらって。そのうち暗くなって凄い音がしてきたの、飛行機の音がね。それで、怖くて椅子の下に隠れちゃって。
工藤:えっ!そうなんですか‼
新田:それで、直ぐに表に出ちゃって。それが一番最初。
工藤:ちょうど7歳くらいで終戦を迎えていらっしゃると思うんですけど、それは戦時中の、いわゆる国策映画と言うか戦意高揚の為の映画だったんですかねえ?
新田:そうだねえ。とにかく飛行機の音にびっくりしてね。
工藤:飛行機というと、たとえば山本嘉次郎監督の『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年)だったかもしれませんね。
新田:題名は分からないんだよ。怖くて直ぐに外に出てしまったからね。
工藤:幼心に戦争の恐怖はあったんでしょうか?
新田:そうだね。とにかく飛行機の音が怖くて。耳がつぶれるような凄い音だった。その後映画を見たのは、小学校5~6年の時かな、田舎だから映画館が無いんですよ。それで、月に一回、映画が来るんですよ。
工藤:巡回映画ですか?
新田:そうそう。広い所を見つけてね。夜とか。そのころは『鞍馬天狗』だね、やっぱり。嵐勘十郎と美空ひばり。田舎だから熱狂がすごいんですよ。嵐勘十郎が馬に乗って走って来ると観客が拍手をして「頑張れー」って。田舎の人たちだからね。美空ひばりが角兵衛獅子で、悪い奴らにイジメられていると、どこに居るんだかわか分からない、遠くから感づいて、馬に乗って走って来るんですよ。道中凄いですよ。それが最初の頃だね。まあ、時代劇が多かったね、東映とかね。
新田:鞍馬天狗は、マキノ正博監督の『鞍馬天狗 角兵衛獅子の巻』(1938年)だったのでしょうか?
工藤:そうかもしれないね。一番最初は時代劇で、それから色々見て、東京に出てからは日活だね。石原裕次郎とか。東映で中村錦之助とかね。
工藤:一番好きな俳優は誰でした?
新田:片岡千恵蔵です。田舎が一緒なので(群馬県)。
工藤;話は戻りますが、戦中から終戦の頃の記憶はありますか?
新田:戦時中は学校に行けなくて、家の近くのお寺とかに集まって勉強をしてたの。小学校に上がってすぐの頃ね。昭和20年にはもう終戦になっちゃうからね。記憶としては、山が多かったからね。友だちと山に入って小屋を作って、陣地を作って取り合いをするようなね。広い山だったから。そんな遊びをしてたね。竹の棒を持って走り回って。子どもの頃はそんなもんだよね。それで、32年に東京に来たのかな。
【2. 東京へ】
工藤:昭和32年は、西暦だと1957年ですね。18歳くらいですか?
新田:そうだね。最初は映画界じゃなくて、商社で日綿實業という会社に入ったんだ。高卒で、集団就職だったけど、社員じゃなくて代理店に入ってニチメンに出向しているわけ。近三ビルというのが日本橋の室町にあってね。繊維製品課という所に入ってね。営業とかに行くわけじゃなくて、電話だけで済むんだよ。倉庫から、どこそに荷物を運んでくれってね。後は書類を回すだけで。楽な仕事だったね、商社は。
工藤:繊維関係の商社だったんですか?
新田:いや、鉄鋼から不動産から全部だよ。伊藤忠とか丸紅とかと一緒だからね。
工藤:大会社だったんですね。会社勤めの生活から、芸能界入りのきっかけは?
新田:千駄ヶ谷にあった東京俳優学校に通うようになったの。昭和36年かな(昭和36年2月25日入学)、それが俳優を始めたきっかけなの。
ブロマイドのマルベル堂で撮った北村淳のプロフィール写真
工藤:俳優を志した動機は?
新田:とにかく、映画が好きだったから。
工藤:学校へは、商社で働きながら通ったんですか?
新田:そうだね。そして、昭和37年2月に新日本映画演劇愛好会に移ったの。場所は京橋だったかな。
工藤:これは、俳優の団体ですか?
新田:いや、学校みたいなものでね。
工藤:23歳くらいですかね。ということは、商社では、5年くらいは働いてたんですね?
新田:そうそう、厚生年金は5年あるんですよ(笑)。
工藤:商社を辞めて、ここに入ったということですか?
新田:いいや、こっちも働きながら通った時期もあったと思うけどね。
【3. 撮影現場へ】
工藤:映画に関わったきっかけは?
新田:昔は自映連というのがあったんです。要するにスタッフの集まる場所だね。
工藤:それは映画人の職能団体ですか?今の映職連のような。
新田:そうだね。撮影とか照明とか美術とかみんな集まってたんですよ。そこに川浦さんという人がいてね。むかし東音スタジオという会社があったんですよ。ビルの4階に事務所があって。そこには十朱久雄(俳優:1908~1985)の弟がいたり、古川ロッパの一番弟子の 小島武三さんなんかが所属していた。川浦さんが、映画をやるからといって、そこに誘ってくれたんですよ。
工藤:その川浦さんはプロデューサーとか監督とかだったんですか?
新田:いやいや、小道具だったの。『ハリマオ』とかね、そういうのの小道具をやってて、それを手伝ったのね。参加したのは、貧しい孤児の施設を描いた映画だったかな。そして、映画が一本終わって、今度は大映テレビを紹介してもらったの。最初は助監督じゃなくて小道具で、『人間の條件』(放送1962年10月~1963年4月)をやったよ。
「人間の條件」現場写真
工藤:映画に関わった最初は小道具のスタッフだったんですね?
新田:いや、その前にチョイ役で俳優として出演していたことはしてた。でも、それじゃ喰えないからねえ。その後は『図々しい奴』(TBS:放送1963年6月~1963年9月)についた。主演が丸井太郎(俳優:1935~1967)。柴田錬三郎さんが原作だから、現場に遊びに来てたよ。それが終わって『隠密剣士』(TBS)をやったよ。『隠密剣士』の主演は大瀬康一(俳優:1937~)から途中で林真一郎(俳優)に変わったんだよね。『隠密剣士』までは小道具だったんだけど、大映テレビの時に演技事務をやっていた広瀬という男が友だちで、こんど東京企画という会社でピンクをやるから出てよということで出演したんだ。
『図々しい奴』の撮影現場で現場でスタッフとして働く 若き日の新田監督(左端)
ゴルフ場で柴田錬三郎氏と
工藤:北村淳名義で出演したピンク映画ですが、手元の資料では1966年の『恥辱の女』(企画・製作:山辺信雄、監督:高木丈夫、岸信太朗)というのが一番古いようですが?
新田:ヤマベプロの製作だね。これは、もっと後だよ。
工藤:題名とか監督とかは、もうお忘れになっているんですね?
新田:うーん。大映出身の増田健太郎さんが監督だったかなあ。もう昔だからねえ。なんとも定かじゃないねえ。
テレビ番組「東京特派員」に出演
工藤:東京企画というのはどんな会社ですか?
新田:渋谷の丸山町に会社があって、三田浩さんという人が社長だったよ。
工藤:俳優のお仕事は最初から北村淳名義ですか?
新田:そう。監督になってから新田になったんだ。
工藤:この1966年『恥辱の女』の前に、何本も出演していらっしゃるんですね。
新田:うん、そうだと思う。
工藤:ピンク映画に出演する以前にピンク映画はご覧になっていましたか?見ていれば、どんな映画か覚えていますか?
新田:その頃は“成人映画”と言っていたけど、一本も見ていなかった。
工藤:最初にピンク映画に出演する時のお気持ちは?抵抗は無かったですか?
新田:あまりハードではないので。女優さんは全裸にならない。胸を隠す(笑)。
工藤:最初に女優とのカラミを演じた時の演技プランや、気を付けた事はありますか?
新田:監督の言うままです。
「東京特派員」撮影現場 演出する舟床定男監督(中央)と俳優・北村淳(右端)
【4. 谷ナオミとの出会い】
新田:その後、友人だった種村正さんが社長で、MAG(ムービー・アーティスト・グループ)という俳優事務所を作ったんだ。大蔵映画、小川欽也監督作品が多かった。それが渋谷にあって。それで、事務所の先輩が誰かいい女の子がいないかと言うんで、谷ナオミ(女優:1948~)をMAGに連れて行ったんです。性格がすごく良かったからね。
工藤:谷ナオミさんとはどういうお知り合いだったんですか?
新田:六邦映画という会社があったんだけど、そこの作品が最初。ナオミちゃんが東京に出てきて一本目の映画だと思うけど、酒匂真直監督の作品(『札付き処女』1967年5月公開。『スペシャル』関孝二監督:1967年4月公開、が谷ナオミのデビュー作とも言われる)で俳優どうしとして知り合ったんだよ。
工藤:谷ナオミさんと出会った頃の思い出はありますか?
新田:現場の待ち時間に一緒に炬燵に入ってトランプやったりそんな感じだよ(笑)。MAGで何本かやってるうちに、谷ナオミは、ヤマベプロに引き抜かれたんだ。
工藤:山辺信雄さんは、確か『隠密剣士』の効果音をやっていらしたはずですが?
新田:そうだね、人を斬る音をね、肉を使ってやってたとか聞いたな。
工藤:新田監督とはその時からお知り合いだったんですか?
新田:いや、その時はまだ知らなかった。私は、小道具だから撮影現場の方で、山辺さんは仕上げの方でダビングとかだから。ヤマベプロには良い役者がいたよ。里見孝二、山本昌平、松井康子とか色々。事務所は目黒にあって、そこで映画を製作したり俳優のマネージメントをしたり色々やってたんだけどね。黒岩松次郎さん、後の団鬼六(作家)さんだけど、山辺さんの友だちで、団さんに徹夜で脚本を書かせたりして。団さんは酒が好きだから、酒を飲ませたら喜んで一生懸命書くからね。谷ナオミは団先生とも付き合っていて。その頃は、ピンク映画の会社がたくさんあったからね。製作・配給兼で、大蔵映画、国映、新東宝映画、六邦映画、富士ビデオ、ジョイパック、日本シネマ…。日本シネマの社長が、監督になるときお世話になる鷲尾さん。
工藤:鷲尾飛天丸(ひでまる)さんですね?
新田:そう。後に谷ナオミ劇団で、新宿名画座で舞台をやってたの。そこに鷲尾さんが来て、「帰りに食事でもしな」とお小遣いをくれたてね。その時、凄い人だなあと思って。その後、日本シネマで何本も仕事をするうちに仲良くなって。鷲尾さんのお陰で監督になれたんだ。今あるのは鷲尾さんがとの関係が元だね。
次回・第2回は、谷ナオミ劇団のマネージャー就任、監督を始めた頃の怒涛の活躍について聞きます。乞うご期待!!